厨先生に訊け! 〜ネットで読める稲葉振一郎

 “P2”インタビュー「人文系ヘタレインテリのためのクールダウン・メソッド」にご協力いただいた「厨先生」こと稲葉振一郎さんのネットで読めるテキスト集です。
 本誌の予習にぜひご利用ください。(編集部)


稲葉振一郎のホームページ
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/


・インタラクティヴ読書ノート・別館
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm


・インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/


稲葉振一郎の「地図と磁石」 第二部 政治学的公共性論(Altbiz Long Interview)
http://hotwired.goo.ne.jp/altbiz/inaba/031202/textonly.html

東洋経済オンライン | 東洋経済オンラインマガジン | 現代日本教養論(山形浩生との対談・連載中)
http://www.toyokeizai.net/online/magazine/story02/


・SFという信仰 (Webマガジンen )
【編集部オススメ!】“P2”インタビューの予習に最適
http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0410/main.cfm


・「物語」としてのFFVII
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/guest/ff7.htm


・Special Manuscript /『ナウシカ解読』もう一つの終章
http://www.asahi-net.or.jp/~sb6k-ski/v9_sinaba.html


・真剣中年しゃべり場
http://www.geocities.jp/hammersmith_golden/Shaberiba/Inaba_2005_shaberiba.html


ナウシカあるいは旅するユートピア
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/nou.htm


サイエンス・フィクションの終焉
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/scifi%7E1.htm


・メタ・ユートピアの構図
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/nozick%7E1.htm


・自然状態・自然権・国家
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/kan.htm


・書評:大沢真理『企業中心社会を越えて』
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/osawa.html


・書評:大瀧雅之『景気循環の理論 現代日本経済の構造』
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/ohtaki.html


・書評:中西洋『〈自由・平等〉と《友愛》』 
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/nakanishi.htm


・書評:金子勝セーフティーネットの政治経済学』
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/kaneko.htm


・書評:浅羽通明『野望としての教養』
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/asaba.htm


・『装甲騎兵ボトムズ』雑感
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/votoms.htm


・自由の条件
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/kyotoshinbun.htm


・『もののけ姫』を読み解く
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/mononoke.htm


・「なぜ人を殺してはいけないの? 」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/kawade.htm


ユートピアを読み解く10冊
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/ronza.htm


・「宮崎駿の世界(下) ハッピーエンドの説得力」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/sankei.htm


・「ニッポン言論のタネ本15冊+α フーコー『監獄の誕生』」
【編集部オススメ!】“P2”インタビューの予習に最適 
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/foucault_ronza.htm


・「新書だけで学び直す一般教養(パンキョー)15冊+α 政治哲学・政治思想」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/shinsho_ronza.htm

 『“P2”』収録の稲葉さんインタビューでは、現代日本教養論でも展開されている「動物化論その後」についてオタクカルチャー・サブカルチャーに焦点を絞り、インタビューを実施しています。ぜひご覧ください!

「夏休み」の終わりに ――『ギャルサー』『ヘブン…』

wakusei2nd2006-07-25


●カウボーイ渋谷にあらわる

 それにしてもふざけた番組だった。何の話かというと、先日放映終了したTVドラマ『ギャルサー』の話だ。舞台は渋谷。その名の通りかの街で活動するギャルサーに所属する女の子たちの物語なのだが、なぜか主役は藤木直人演じる日系カウボーイである。このカウボーイが、その非常識な振る舞いでギャルサーの女の子たちを振り回すコメディ……というのがこのドラマの骨子だ。たぶん、これだけ説明しても何がなんだかさっぱりわからないと思う。実際、いまだに僕もよくわかっていない(笑)。 実際このドラマ、放映開始直後のファンの評価は必ずしも高くなく「ふさけすぎ」「今期最低のドラマ」と酷評されることもあった。しかし、放映が進んで「異文化交流」というテーマが浮かび上がってくるにつれてだんだんと本作を評価する声が増えていった。「イマドキ」のギャルサーと、「昔ながら」の商店街の対立がこの作品の基本構造なのだが、ここにアリゾナからやって来た日系カウボーイという第3項が加わることで、両者はだんだんと氷解していくのだ。

●Open the Door、ドアを開けろ

 象徴的なのは最終回直前の第10話だろう。
 ギャルたちの集会所の家主である文房具店の主人(高田純二)が、突然「家賃を30万円値上げする」と言い出して少女たちを追い詰める。ギャルたちは団結して、集会所を「バリ封」して対抗する。少女たちは語る。

「あたしらは学校にも家にも居場所がないの」
「どこに行っても邪魔者扱いされちゃうの」
「実際、外じゃ何の役にも立たないし」
「ここに来れば仲間がいる」
「パラパラが出来る」
「ここにいる時だけ、あたしらは自由なんだ」
「だからここは大事な場所なんだよ」

 そして、そんな少女たちに藤木直人演じるカウボーイは訴える。

「本当にそうか? 本当にお前たちにはここしかないのか? お前たちはいつもここにいる。話が通じない。どうせ分かってもらえない。と、すぐここに逃げ込む。すぐドアを閉める。自分の気持ちを伝える。相手の気持ちを知る。どっちもしない。だりぃ(だるい)からしない。簡単に分かり合える相手としか一緒にいない。ここにいる時だけ自由だとお前達は言った。が、しかし本当はここにしがみついている限り、お前たちは不自由だ。ずっと不自由なままだ。Open the door。ドアを開けろ。そうしなければ世界は闇に包まれたままだ。」

 結局、カウボーイの説得もあって少女たちは封鎖を解除する。だが、文房具店の主人はあっさりと家賃値上げを撤回する。彼は、自分が昔、学生運動に関わっていたこと、そして今のギャルたちを見て、当時の自分とソックリだと思ったことを告げる。そう、彼は渋谷のギャルサーたちに、かつての自分たちの姿を重ね合わせて「かまってみたく」なっただけなのだ。
 世界の変革を願ってバリケードの中に立て篭もった全共闘の闘士たちも、渋谷の片隅でパラパラを踊り続けるギャルたちも、結局「居場所が欲しい」だけなのだと、この物語は両者を並列に並べてみせる。

●「終わり」を告げることの難しさ

 「Open the Door、ドアを開けろ」――若者が抱きがちな疎外感を共有しながら、なんとなく「つながる」ことで得られる共同体は居心地がいい。けれど、カウボーイはそこから旅立たなければならないと主張する。なぜならば、そんな疎外感を担保とした「ここから先は味方/敵」という線引きは、世界を狭くするだけだからだ。そして、少女たちはギャルサーという居場所を捨て、続く最終回でそれぞれの道に進んでいく。

 こう書いてしまうとなんだか甘酸っぱくもそしてほろ苦い青春物語のようだが、先述したようにこのドラマは、基本的にはどうしようもないバカドラマである(笑)。先述したこの第10話も取り上げた部分こそ「いい話」だが、その他の部分は(いい意味で)視聴者を馬鹿にしているとしか思えないデタラメの極致である。どんなに感動的なシーンでも、藤木直人のカウボーイ姿が眼に入る限り、そのシーンはどこか「ギャグ」の色彩を帯びてしまう。だが、こういった徹底された「馬鹿馬鹿しさ」の中にさり気なくメッセージを込められている『ギャルサー』という作品の豊かさは、やはり特筆すべきだと思う。

 終わらない夏休み――モラトリアムに閉じこもる少年少女たちに、その「終わり」を告げることは難しい。居心地のいい待避所への依存度が高ければ高いほど、夏休みの終わりを告げる言葉はノイズとして排除される。しかし『ギャルサー』は「徹底したくだなさ」を経由することで、終わらない夏休みを生き続けようとする少女たちに優しく、そして暖かくその「終わり」を告げることに成功しているのだ。

●ゴミ捨て場は「天国」に

 もう一作、渋谷のカウボーイと同じように「夏休みの終わり」を告げる作品を挙げてみよう。
 鈴木志保『ヘブン…』の舞台は、どこかの埋立地に設けられたゴミ捨て場だ。そこは人々に捨てたれた物が生命を宿す、一種の異空間になっている。壊れた玩具のロボット、破り捨てられた手紙、忘れ去られたぬいぐるみ……それらはすべて、人々が成長する過程で捨て去っていったものだ(成熟と喪失)。だがこのゴミ捨て場では、外の世界では「価値のない」とされるものが、美しく、素敵なものとして蘇る。そう、まさにそこは「天国(ヘブン)」なのだ。成熟の過程で喪失していくものが息を吹き返し、モラトリアムを延長していく場所だ。『ギャルサー』の集会所が、通常の社会のレールに乗っては成長できない不器用な少女たちの「避難所」だったのと同じように、この「天国」も夏休みを延長する避難所なのだ。
 物語は主に、そんな天国(ヘブン)で暮らす一人の少女・ベツレヘムの視点から描かれることになる。ベツレヘムはそこで数多くの成熟と喪失の痛みを目撃する。そして、「天国」で一度喪われたものが息を吹き返す「奇跡」に触れる。そして、彼女はやがて自ら扉を開け、「天国」を去っていく。
 そして物語の結末、天国は次の少女を迎え入れる。たぶん、この「天国」はこうしてずっと、不器用な少女たちを迎え入れては、彼女たちが自ら進んで夏休みを終わらせようと思えるまで、奇跡を見せ続けて来たのだろう。終わらない夏休みを生きる少女たちに、この「天国」はどこまでも優しい。いつか、確実に終わりの日を迎えるのだという確信があるからこそ、どこまでも優しくなれるのだ。

 不器用な少女(少年)たちはときに「終わらない夏休み」逃げ込む。いや、大抵の人間にとって、人生に夏休みは必要だ。しかし夏休みは一瞬で終わるからこそ、その魅力を発揮するものなのだ。夏休みの只中にいる少女(少年)たちにその終わりを告げるのはひどく残酷で難しいことだ。それを底抜けのくだらなさで成し遂げるのか、それとも優しさで包むことで成し遂げるのか――。どちらにせよ、そこで描かれるのはひとつの季節の終わりであり、何らかの喪失である。だが、「終わり」があり「喪失」を孕むからこそ、私たちはそこに天国を見出すのだ。

宇野常寛

ギャルサー』については“P2”本誌収録の評論「『ギャルサー』論 日テレ土曜九時枠はドラマの最前線か?」(成馬01)にて詳しく取り上げています。また、「PLANETS SELECTION 2006」 では『ギャルサー』『ヘブン…』両作品を紹介しております。ぜひご覧ください!

「ロマンの喪失」を巡って――『悲劇週間』『銀魂』

wakusei2nd2006-07-21


 世の中には「確実に価値があること」があって、自分はそれを探して生きている。自分が全力投球するのは、そんな「確実に価値のあること」だけで、それが何かわからない今は何もしないのだ――。
 滝本竜彦の『NHKにようこそ!』を引くまでもなく、90年代的厭世観(「引きこもり」的厭世観)は肥大したロマン主義の裏返しである。自分の実力を省みず「自分が生きる意味を見つけられないのは、世界がつまらないからだ」と責任転嫁する。何が真実か、何が善いことか、何が美しいか、世界の側が決めてくれないと彼等は何もできないのだ。もちろん、「つまらない」のは不平不満を口にするだけで何もできない彼等の方であって、世界の方は今でも十二分に「おもしろい」。自称ロマン主義者たちが世界のつまらなさを嘆くのは、彼らの多くが非日常的なロマンを求めるあまり、日常の中に存在する世界の魅力を嗅ぎ取る能力を欠いてしまっているからに他ならない。彼等(責任転嫁型)ロマン主義者たちは、皮肉にもロマン主義者であるが故に、世界のおもしろさ(たとえばそれを「ロマン」と呼んでもいい)を見失うのだ。

 矢作俊彦が昨2005年に上梓した『悲劇週間』は、そんなロマンの在り処を巡る物語だった。主人公は若き日の堀口大學。外交官の父と共にメキシコを訪れた彼はそこで、革命という歴史の1ページに遭遇する。だがそこで大學が遭遇するのは歴史が提供するロマンではない。むしろ、革命というドラマチックな歴史が終わりを告げてゆく瞬間であり、ロマンが喪われる瞬間なのだ。
 大學青年の周囲を取り巻く大人たちは明治(19世紀)という個人が歴史の当事者たり得た時代の住人である。しかし、二十歳の大學が生きる世界は昭和(20世紀)という時代に移り変わろうとしている世界だ――。ふたつの大戦に象徴される20世紀とは、歴史と個人(固有名)との関係を、大量死(無名性)の中に回収していった時代だった。そう、20世紀は誰も歴史の主役にはなり得ない=歴史という舞台の上では誰も固有名を保持できない=歴史が個人の生きる意味を与えてくれない世界に突入したのだ。これが言ってみれば「世界における(歴史に裏付けられた)ロマン喪失のメカニズム」といったところだろう。
 そして、大學が目撃するのは、そんな「革命の終焉=ロマン喪失の瞬間」なのだ。そして、そんな喪失の瞬間にしか発生することのないものを、徹底した美意識を通して照らし出したのが本作だと言える。ロマン喪失の瞬間に発生する甘美なものに、70年安保の「遅れてきた世代」に属する矢作俊彦はとりわけ敏感な作家なのだ。

 ロマンの喪失というテーマで考えたとき、私が思い浮かべる作品がもう一作ある。それは『週間少年ジャンプ』に連載中の少年マンガ空知英秋の『銀魂』だ。
 『銀魂』は随分と奇妙な漫画だ。舞台は幕末をベースにした架空の世界。アメリカではなく、異星人によって「開国」させられてしまった日本だ。主人公の銀時は、かつて「攘夷志士」として活躍しながらも異星人との戦いに敗れ、今は仲間たちと気ままに万屋なんでも屋)稼業を楽しんで生きている。かつての同志たちは、そんな銀時に非難を浴びせることもあるが、銀時はまったく動揺することもなく、物語は彼らの日常をコメディタッチでひたすら楽しく描いていく。
 たぶん、銀時は知っているのだ。この世界が既に、「歴史が個人の生を意味づけてくれる(ロマンを備給してくれる)」親切設計を喪ってしまっていることを。そう、銀時は異星人に敗北していじけているのではなく、世界のしくみが変わったことを悟っているのだ。けれど、決して銀時は「こんな世界はつまらない」といじけたりはせず、等身大の日常と、そこで精一杯生きる人々との関係の中に果敢に飛び込んでゆく。そこは「歴史」という華やかな舞台からは遠くにある場所だが、銀時の目は常に輝いている。そこで彼が見出しているものを、ロマンと呼ぶことにさして抵抗はないはずだ。再確認するまでもなく、かつて大學青年が体験したような「ロマンの喪失」は実のところ「ロマンの喪失」ではない。「世界(歴史)がロマンを与えてくれる装置」の喪失なのだ。たとえば銀時がそうであるように、あるいは日常だけが残されたこの世界にロマンを見出すことは、そう難しいことではないはずだ。そして、銀時は今日も日常を生き続ける。

 「こんな世の中はつまらない」という前に、一度点検してみるのも悪くないはずだ。つまらないのはロマンを喪った(かに見える)世界なのか、それとも(ロマンの在り処を嗅ぎ付けられない)自分自身なのか。

宇野常寛

 空知英秋銀魂』については“P2”本誌の座談会「少年ジャンプの過去・現在・未来(成馬01×青木摩周×岩瀬坪野)、及び惑星開発委員会オススメの30作品を徹底レビューした『PLANETS SELECTION 2006』にて詳しく取り上げています。ぜひご覧ください!