「夏休み」の終わりに ――『ギャルサー』『ヘブン…』

wakusei2nd2006-07-25


●カウボーイ渋谷にあらわる

 それにしてもふざけた番組だった。何の話かというと、先日放映終了したTVドラマ『ギャルサー』の話だ。舞台は渋谷。その名の通りかの街で活動するギャルサーに所属する女の子たちの物語なのだが、なぜか主役は藤木直人演じる日系カウボーイである。このカウボーイが、その非常識な振る舞いでギャルサーの女の子たちを振り回すコメディ……というのがこのドラマの骨子だ。たぶん、これだけ説明しても何がなんだかさっぱりわからないと思う。実際、いまだに僕もよくわかっていない(笑)。 実際このドラマ、放映開始直後のファンの評価は必ずしも高くなく「ふさけすぎ」「今期最低のドラマ」と酷評されることもあった。しかし、放映が進んで「異文化交流」というテーマが浮かび上がってくるにつれてだんだんと本作を評価する声が増えていった。「イマドキ」のギャルサーと、「昔ながら」の商店街の対立がこの作品の基本構造なのだが、ここにアリゾナからやって来た日系カウボーイという第3項が加わることで、両者はだんだんと氷解していくのだ。

●Open the Door、ドアを開けろ

 象徴的なのは最終回直前の第10話だろう。
 ギャルたちの集会所の家主である文房具店の主人(高田純二)が、突然「家賃を30万円値上げする」と言い出して少女たちを追い詰める。ギャルたちは団結して、集会所を「バリ封」して対抗する。少女たちは語る。

「あたしらは学校にも家にも居場所がないの」
「どこに行っても邪魔者扱いされちゃうの」
「実際、外じゃ何の役にも立たないし」
「ここに来れば仲間がいる」
「パラパラが出来る」
「ここにいる時だけ、あたしらは自由なんだ」
「だからここは大事な場所なんだよ」

 そして、そんな少女たちに藤木直人演じるカウボーイは訴える。

「本当にそうか? 本当にお前たちにはここしかないのか? お前たちはいつもここにいる。話が通じない。どうせ分かってもらえない。と、すぐここに逃げ込む。すぐドアを閉める。自分の気持ちを伝える。相手の気持ちを知る。どっちもしない。だりぃ(だるい)からしない。簡単に分かり合える相手としか一緒にいない。ここにいる時だけ自由だとお前達は言った。が、しかし本当はここにしがみついている限り、お前たちは不自由だ。ずっと不自由なままだ。Open the door。ドアを開けろ。そうしなければ世界は闇に包まれたままだ。」

 結局、カウボーイの説得もあって少女たちは封鎖を解除する。だが、文房具店の主人はあっさりと家賃値上げを撤回する。彼は、自分が昔、学生運動に関わっていたこと、そして今のギャルたちを見て、当時の自分とソックリだと思ったことを告げる。そう、彼は渋谷のギャルサーたちに、かつての自分たちの姿を重ね合わせて「かまってみたく」なっただけなのだ。
 世界の変革を願ってバリケードの中に立て篭もった全共闘の闘士たちも、渋谷の片隅でパラパラを踊り続けるギャルたちも、結局「居場所が欲しい」だけなのだと、この物語は両者を並列に並べてみせる。

●「終わり」を告げることの難しさ

 「Open the Door、ドアを開けろ」――若者が抱きがちな疎外感を共有しながら、なんとなく「つながる」ことで得られる共同体は居心地がいい。けれど、カウボーイはそこから旅立たなければならないと主張する。なぜならば、そんな疎外感を担保とした「ここから先は味方/敵」という線引きは、世界を狭くするだけだからだ。そして、少女たちはギャルサーという居場所を捨て、続く最終回でそれぞれの道に進んでいく。

 こう書いてしまうとなんだか甘酸っぱくもそしてほろ苦い青春物語のようだが、先述したようにこのドラマは、基本的にはどうしようもないバカドラマである(笑)。先述したこの第10話も取り上げた部分こそ「いい話」だが、その他の部分は(いい意味で)視聴者を馬鹿にしているとしか思えないデタラメの極致である。どんなに感動的なシーンでも、藤木直人のカウボーイ姿が眼に入る限り、そのシーンはどこか「ギャグ」の色彩を帯びてしまう。だが、こういった徹底された「馬鹿馬鹿しさ」の中にさり気なくメッセージを込められている『ギャルサー』という作品の豊かさは、やはり特筆すべきだと思う。

 終わらない夏休み――モラトリアムに閉じこもる少年少女たちに、その「終わり」を告げることは難しい。居心地のいい待避所への依存度が高ければ高いほど、夏休みの終わりを告げる言葉はノイズとして排除される。しかし『ギャルサー』は「徹底したくだなさ」を経由することで、終わらない夏休みを生き続けようとする少女たちに優しく、そして暖かくその「終わり」を告げることに成功しているのだ。

●ゴミ捨て場は「天国」に

 もう一作、渋谷のカウボーイと同じように「夏休みの終わり」を告げる作品を挙げてみよう。
 鈴木志保『ヘブン…』の舞台は、どこかの埋立地に設けられたゴミ捨て場だ。そこは人々に捨てたれた物が生命を宿す、一種の異空間になっている。壊れた玩具のロボット、破り捨てられた手紙、忘れ去られたぬいぐるみ……それらはすべて、人々が成長する過程で捨て去っていったものだ(成熟と喪失)。だがこのゴミ捨て場では、外の世界では「価値のない」とされるものが、美しく、素敵なものとして蘇る。そう、まさにそこは「天国(ヘブン)」なのだ。成熟の過程で喪失していくものが息を吹き返し、モラトリアムを延長していく場所だ。『ギャルサー』の集会所が、通常の社会のレールに乗っては成長できない不器用な少女たちの「避難所」だったのと同じように、この「天国」も夏休みを延長する避難所なのだ。
 物語は主に、そんな天国(ヘブン)で暮らす一人の少女・ベツレヘムの視点から描かれることになる。ベツレヘムはそこで数多くの成熟と喪失の痛みを目撃する。そして、「天国」で一度喪われたものが息を吹き返す「奇跡」に触れる。そして、彼女はやがて自ら扉を開け、「天国」を去っていく。
 そして物語の結末、天国は次の少女を迎え入れる。たぶん、この「天国」はこうしてずっと、不器用な少女たちを迎え入れては、彼女たちが自ら進んで夏休みを終わらせようと思えるまで、奇跡を見せ続けて来たのだろう。終わらない夏休みを生きる少女たちに、この「天国」はどこまでも優しい。いつか、確実に終わりの日を迎えるのだという確信があるからこそ、どこまでも優しくなれるのだ。

 不器用な少女(少年)たちはときに「終わらない夏休み」逃げ込む。いや、大抵の人間にとって、人生に夏休みは必要だ。しかし夏休みは一瞬で終わるからこそ、その魅力を発揮するものなのだ。夏休みの只中にいる少女(少年)たちにその終わりを告げるのはひどく残酷で難しいことだ。それを底抜けのくだらなさで成し遂げるのか、それとも優しさで包むことで成し遂げるのか――。どちらにせよ、そこで描かれるのはひとつの季節の終わりであり、何らかの喪失である。だが、「終わり」があり「喪失」を孕むからこそ、私たちはそこに天国を見出すのだ。

宇野常寛

ギャルサー』については“P2”本誌収録の評論「『ギャルサー』論 日テレ土曜九時枠はドラマの最前線か?」(成馬01)にて詳しく取り上げています。また、「PLANETS SELECTION 2006」 では『ギャルサー』『ヘブン…』両作品を紹介しております。ぜひご覧ください!